ピアノ② | ミツバチ生活への道~英会話・音楽ライブ・映画~

ピアノ②

次の試練は合唱部の伴奏でした。

全体の伴奏は3年生がやるのですが、3年生だけのコーラスもあり、その時には2年生が伴奏するのです。

大田先生に「伴奏お願いしておくわね」と軽い調子で楽譜を渡されました。

家に帰って伴奏譜を見ると、気は重くなるばかり。もともと実力が無かった上に、レッスンもやめていますから、全く自信がありません。

翌日「難しすぎるうえに、バレーボールでつき指だらけで満足な練習も出来ませんから」と断わりに行きました。

でも、先生は「大丈夫、大丈夫。来年の予行練習のつもりで、気楽にやってよ」と受けつけてくれません。


「来年の・・・」その言葉が、より一層私の心を沈ませました。

必死で曲をしあげたものの、地区の合同合唱会の一週間前、高熱を出し声が全く出なくなって、学校を10日間休みました。

風邪がきっかけでしたが、声が出なくなったのは、極度のストレスのせいだったようです。

伴奏をせずにすんだのは良かったのですが、申し訳なさでいっぱいでした。

登校してお詫びの言葉を重ねる私に、先生は「来年があるから、あなたもがっかりしないで」とまた力強く励ましてくれるのでした。


結論を言うと、『来年』はありませんでした。

太田先生がご家庭の事情とかで退職され、3年生のときは、非常勤の先生が音楽を担当しました。

顧問のいなくなった合唱部は、廃部になりました。あまり、先の心配はするものじゃありませんね。

それから、楽しいと思えないことは、やり続けてはいけないという教訓もしっかり身にしみました。


以上が、なぜ私がピアノを嫌いになったかという、悲しい思い出話です。

私にとってピアノは、常に出来ないことを強制する、嫌で仕方ないものでした。

でも、ベースに出会い、また音楽の楽しさを取り戻しました。


ところで、ここからはピアノとは関係ないのですが、孝一君にかけられた最大の迷惑エピソードをお話しします。

2年の終わりに次期生徒会の会長、副会長選挙がありました。

おだてられたのか、脅かされたのか孝一君は選挙に立候補し、当選しました。けれど、副会長の女子も選挙で決まった訳ですから、私には何の被害もないと、たかをくくっていました。


ところが、彼が私の所にやってきて、「生徒会役員の会計お願いするよ」と、とんでもない話をもちかけました。

そうです、会長、副会長が役員4役のうちの、書記、会計を決めてよかったのです。

長年の付き合いで私の悪筆を知っている彼は、さすがに『書記』というと私の逆鱗に触れると思い、『会計』を言い出したのでした。でも、結果は一緒!即答で断わりました。


しかし、私の役員入りは彼の次期政権の構想に最初から組み込まれていたらしく、いつもはぼーっとしている孝一君も、今回ばかりはしつこく粘りました。

あげくには、生徒会担当の先生から「Nさん、困るな。早く『会計になった抱負』の原稿出してくれないと、学校便りがだせないんだよね」と、しかられる始末です。


ピンチでした。そんな時思いついたのが、女子バレー顧問の橋本先生!

先生は風紀担当で学校中の生徒から怖がられていましたが、私はその厳しさが大好きでした。

生徒会役員とクラブの部長は兼任できないのが不文律になっていましたから、『チームの柱である私が生徒会のことなんか言い出したら、逆にたしなめられるのがおちね』と、自惚れながら職員室に向かいました。


しかし、意に反して先生は「うん、聞いてるよ。頑張ってくれたまえ!山下さんも書記をやるそうじゃないか。二人も役員を出すなんて、バレー部としても鼻が高いよ」と意外な反応です。


山下さん、そう、合唱部のとき私のお付き合いで入部した彼女は、幸一君の「Aちゃんが会計だから」に騙されて、早々に書記を引き受けていたのです。

「でも、先生、私は1年、2年と学年のキャプテンをやってきました。3年も頼むとチームの皆に言われているんです」と食い下がりました。

そんな私に先生のつらい一言。「キャプテンは寺尾さんあたりでもいいんじゃないかな」

寺尾さんは2年生から入部したのですが、頭角を現し私とメインのセッターを争っていたライバルでした。

・・・『先生は、4月からのチーム作りを寺尾さん中心で考えているんだ』・・・そう悟った私は、黙ってその場を去りました。


実は、橋本先生、4月からの事なんか、何も考えていなかったのです。4月になると、生徒指導の手腕をかわれ、教育委員会へ行ってしまいました。後に残ったのは、勘違いして会計を引き受けてしまった、間抜けな私だけでした。


例年なら生徒会の仕事も、さほど大変ではなかったと思います。

ところが、私の通った中学校は私たちを最後に3校が統合して、翌年から新しい学校が出来ることになっていました。ですから、生徒会の仕事は、通常の運営と、学校を閉めるにあたっての諸々の整理、そして、お節介な事に、新校の生徒会規約作りまであったのです。他の2校の生徒会役員と日曜に集まって、何度も会議を重ねました。


しかし、そんな事は序の口!

一番苦しめられたのが、ベルマークの整理。ベルマークってご存知ですか?

息子たちのときは、グリーンマークとか言ってましたね。文房具を初め、食品からあらゆる雑貨にいたるまで、値段に合わせて、ポイントのマークが付いていたのです。

個人では応募できず、学校で集めて、ポイントに応じて備品をもらうシステムでした。


小学校のときから、せっせと集めては、学校に持っていっていた記憶があります。

集められた後、どうなっていたか知ってましたか?

すくなくとも、私の中学校では無造作にダンボールに放り込んで、生徒会室の隅に放置していました。


一年かかりました、一枚一枚台紙に貼って、品物を手にするまでに。ポランティアをつのりましたが、誰もやりたがるはずもありません。毎日昼休み、生徒会室に集まっては、役員4人で内職のように、黙々と作業に取り組んだのです。


晴れて高校になったとき、やはり、孝一君と同じクラス。

お互い知らない人が多く、しんとしている中、「○○、また同じクラスやね」と彼が私の席に近ずいてきました。○○は、私のニックネーム。ただし、ごく少数の女子と孝一君が使っているだけでした。

私はそう呼ばれるのが、嫌でたまらなかったのです。同じ中学から来た女子にはきっちりと、「高校では○○とは呼ぶな」と申し渡していたのに!


積もりに積もっていた怒りが爆発しました。その日から完全シカト。もともと本が好きでいつも読んでいたのですが、さらに寸暇を惜しんで本を広げ、彼が近ずいてきても、「邪魔しないで」という冷たい視線をむけるだけでした。作戦は成功し、3年間一緒のクラスだったはずなのに、彼の記憶は一切ありません。


でも、・・・

大学になって、初めて高校の同窓会がひらかれました。男子がやたら物珍しそうに話しかけてきます。

「Nさんと、初めてまともに話したよ」

「いつも、本を読んでいて、バリアが張ってあったから近ずけなかったね」

「女子としか話さないから、男が嫌いか、馬鹿にしてるのかと思ってた」


・・・えっ、そうだったの・・・

道理で、ちっとももてなかったハズ!

私の青春を返して!!