ピアノ① | ミツバチ生活への道~英会話・音楽ライブ・映画~

ピアノ①

私と音楽の出会いはピアノです。

小学3年生の時、『小学校の先生になりたい』と思いました。そのとき、「教員の試験にはピアノもあり、バイエルぐらい弾けないといけない」と聞き、親にピアノのレッスンに通わせてくれと、せがんだのでした。


将来の為に何かを習う・・・発想が今も一緒です。進歩してませんね(笑)

バイエルを終わる頃には、将来の夢も変わっていましたが、ピアノは習い続けました。もともと音楽が好きで始めたピアノではないので、微妙な関係でした。お稽古は、始めるのは簡単ですがやめるタイミングに悩みます。


先生も3人変わりました。最初の先生は幼稚園の先生。3、4年生の二年間を習ったのですが、自分の中に目的意識もあり、結構がんばりました。お友達と一緒に通っていて、とても楽しかったのを覚えています。


5年生になってすぐ、その先生が遠くへお嫁に行ってしまいました。それを機に友達はピアノをやめたのですが、私は中途半端な気がして、中学の音楽の先生をしていた石田先生に、続けて習いました。

今考えると、石田先生はとてもユニークな人でしたね。世間知らずのお嬢様が、そのまま大人になったような感じでした。


音大の声楽科出身でしたが「本当はピアノの方が得意なの。でも、バレーボールをやっていたから、ピアノはあきらめたわ」とおっしゃっていました。ドイツ人の先生に3歳から習っていたというピアノが、どれぐらい上手いのかは当時の私にはわかりませんでした。

ただ、鮮やかに覚えているシーンが、一つだけあります。レッスンの初日、「ピアノだけじゃなく、ソルフェージュもやって、歌の練習も取り入れていきましょ」とおっしゃる先生に、一緒に来ていた母が「実はこの子は音痴で歌は・・・」と困惑していました。すると、「まぁ、お母様、世の中に音痴なんておりませんのよ、ホホホ。」と艶やかに笑ったのです。・・・確かに音は聴き取れるようになりましたが、私は相変わらず音痴です。


実は、先生は私が通うことになる公立中学の先生でした。公務員である先生がアルバイトでピアノを教えてよかったのか疑問ですが、当時はおおらかで中学生もかなり習っていました。

私も、小学生で習っている時は意識しなかったのですが、中学生になると困りました。


入学してみるといきなり担任でした。「普通こういう場合は外さないか!?」と中学生なりの常識で考えてみました。連休前後は家庭訪問の時期でしたが「Aちゃんのお母様にはピアノのレッスンで何度もお会いしてるから、Aちゃんは家庭訪問なしでいいわね」・・・教室で朝の会の時、聞かれてしまいました。男の子が「えーっ、俺のかあちゃんにも、入学式で会ってるはずだ!俺も家庭訪問なしがいい!」と突っ込んでいました。しかも、他の生徒は苗字で誰々さん、誰々君なのに、私だけAちゃん。レッスンと学校は切り替えて欲しかったです(汗)


先生の宣伝のお陰か、秋の合唱コンクールでは、私がピアノの伴奏をすることになりました。

私は、そういうのが一番嫌いなのです。もともとピアノが好きで習い始めたのではなく、資格の一つとしてレッスンを受け始めたのです。発表会は衣装を考えてはしゃぐ母の手前もあり、しぶしぶ出ていましたが、何が悲しくて、合唱コンクールの伴奏なんか。


でも、それだけなら、傷は浅かったと言えます。

先生は合唱部の顧問でした。地味で部員が集まるのかと思いきや、先生は裏技を使って、盛大に運営していました。クラブ活動が昼休みなのです。もちろん、放課後は他の部活に参加できます。

入学式の次の日、先生に言われました。「私のレッスンに通っている生徒さんには、自動的に入ってもらうことになってるのよ」

・・・知らなかった!しかも裏では、私の友達に「Aちゃんが入るから、一緒に参加してあげて」と強引な勧誘作戦にでていました。


昼休みは食事も消化せぬままに、発声練習。放課後はバレー部。それも、一年生チームの部長でした。

ちなみに、合唱部に友情入部したお人よしの山下さんは、副部長です。

ところで、気ずいたことがありました。私と同じ学年でもう二人、女の子が石田先生のピアノに通っていましたが、合唱部に強制加入はされていませんでた。・・・断われたんですね・・・そりゃそうでしょ、自由の国日本ですものね・・・。


石田先生は、無敵!そう思っていたのですが、一年生の終わりに東京へ帰っていかれました。

「声楽をもう一度やり直したい。セミプロで、もまれる覚悟です」と言い残して。

ここで、3人目の先生の登場です。

私も、石田先生の退場を機にピアノをやめればよかったんですが、例によって中途半端な気がして。

結局3人目の先生には、2回しかレッスンを受けませんでした。名前も覚えていません。


どうしてそんな事になってしまったのか!?

実は、2回目のレッスンの時、帰り道で迷子になってしまったんです。3箇所目は今までみたいに先生のご自宅ではなく、楽器屋さんでした。少し遠くなったのですが、生活圏内。それまで何回か行ったこともありました。

ところが、私の特技は知ってる所でも迷子になれること。昼間レッスンに出かけた私が夜になっても帰らず、家では大騒ぎでした。「警察に連絡しようと、電話の受話器を持ったとき帰ってきた」と母が涙ながらに語っておりました。

「ピアノは疲れるから嫌だ」知らない道に迷い込んで散々ウロウロして、出した結論は「ピアノをやめよう!」ということでした。


ここで私とピアノの縁が切れれば、めでたしめでたし、だったのですが世の中そう甘くありません。

2年生になって、音楽の後任に大田先生が赴任してこられました。

先生は石田先生とは正反対の、元気度100%の愉快なおばさんでした。こっそり合唱部をやめようとしていた私の肩を、「よろしくね。一緒に頑張っていきましょう!」と思いっきりたたいて、励ましてくれました(涙)。


2年生が一番つらい時期でした。

石田先生の所で習っていた峰さんも、同じクラスになりました。小学3年からピアノを始めた私ですが、峰さんは幼稚園の時からならっており、天性のものもあったのでしょう、私とは比べものにならないぐらい、ピアノの名手でした。

「これで、大丈夫!!」秋の合唱コンクールは峰さんが伴奏してくれるはずです。去年も違うクラスで伴奏をして、とても同じ曲とは思えない素晴らしい演奏でした。


すっかり安心していた私に、人生の不条理を思い知らせる出来事がありました。

「じゃあ、合唱の伴奏はNさん(私の旧姓)ですね」とまともな議論もないまま、あっさり申し渡されてしまったのです。

『じゃあ』という結論はどこから導かれたのでしょう。それは、孝一君が指揮者にさせられたからです。

孝一君は無類のお人よし。学級委員、実行委員その他もろもろ、やらされていました。

中学生になって、そういう仕事はなんだかかっこ悪いとみんなが思い始め、人のいい
孝一君に押し付けていたのです。

それを、のんきに引き受けるのは本人の自由だから、私がとやかく言うことではありません。でも、孝一君と私はなぜかセット扱いされていたんです。彼とは幼稚園の年中さん以来、高3まで14年間同じクラスでした。当時、男子が長、女子が副が学校の常識でしたが、そこにもう一つの常識『孝一君が長になったら、副はNさん』が加わっていたのです。


合唱の伴奏を何とかこなした私に、次なる試練が待っていました。

長くなりますので、続きはまた明日。


写真はフリージア

去年の秋、娘が同名のフリーソフトのゲームにはまっていましたので、球根を植えてみました。

・ユ・